存在と時間からの一考

「頽落している自己を見つめるのが、本来的自己であるのだが、」(翻訳に、この表現はそのままはない。)というような表現は、世間の中での役割、与えられた肩書きから見た自分を、離れたところから見直す自分が、本来の自分、この本来の自分は可能性としての自分があるだが。くらいの意味になる。
多くの可能性から、今の世間の中での自分を選択している。この自分でない可能性を見ることが出来るが、本来の自分。どちらが本来で、どちらが非本来かというとアナログレコードのA面、B面みたいなもので、どちらが本来であってもいいのだが、様々な可能性を選択可能であることを認識している自分を本来的と考える。
この本来的な自分が何かというと、可能性でしかない。自分の中身は、非本来的な自分が、自分はこれだ「例えば父であり、A社のサラリーマン」と言える自分であるのだから。そう考えると、本来的な自分は、可能性ではあるのだが、空虚な自分である。自分が空虚であるからこそ、世間の中での役割に没入してしまう。いわゆる会社人間が生まれたりするのは、可能性でしかない自分というものは何者でもないから、そのことを認めたくないのだろうと思う。
可能性である自分には、自分をある分野に投げ出す勇気があれば、異なる自分が得られるのだが、その勇気も現実には環境的に限定されている。突然に、異なる社会に飛び込むということは社会的生物である人間から考えても実際には難しい。
このことも、結局はもし異なる可能性に挑戦しても環境適応化すれば、そのときには以前とは、異なる非本来的な、世間の中での役割に適合している状態になる。そしてまた、本来的な自分が新しい環境、可能性を見ようとするのかもしれない。
本来的な自分と、非本来的な自分の入れ替わりは、日常のことだ。何でこんなことをやっているのかな、と思うことうは本来的な自分が、社会、環境に没入した自分から自分を見つめている時だ。