現実と言葉の間つづき

  現実と言葉の違い、これはリアルに違う。言葉が示すものが現実と考える。現実を見ていると考える。この考え、「現実を見ているという考え」のもとには言葉が存在する。すると言葉は、言葉=現実でない限りは、現実と一致することはない。
  どのような言葉も、現実を直接に表現できている言葉などないということになる。
  現実が表せない言葉の世界の中に、言葉を使って、自分を示し、他人を理解しようと生きているわけだが、前提からして、現実を言葉で理解することは不可能となる。
  私が生きる世界は、言葉の世界である。これは、文章上の表現でなく、「現実に」言葉の世界に生きている。抽象化された世界に生きているのである。誰も、自分の考えが抽象的だと思っていない。そもそも抽象という語彙をほとんど知らない、使わない人についてさえも、言葉は抽象なのだ。言葉が示すものは、そのもの自体ではない。それに気付かず、それぞれに自分が具体のものに対して考えていると、感じている。しかし、それは勘違い、言葉に置き換えた事は、抽象化された自分が切り取った現実の写真、写しのようなものだ。
  この言葉から世界を見て、世界と対話している自分がいる。
この自分が見た世界が正しいか、正しくないか、それが真理の意味だが、つまるところ真理にたどりつくことは無いのだろうと思う。こういうと絶望的だが、自分の考えイコール真理という自信があったとしても、これを確証する方法がない。現実と考えの1対1対応が真理だと考えると、現実を考えと別に知る方法が必要だが、どのような実験手段を考えようが、その考えが現実と対応しているかという疑問が生じ、無限に後退していくことになる。
  真理を考えの側においた場合、現実と対応していなくても、自分の信念イコール真理は一つの考えではあるが、真理という言葉は意味を失うだろう。むしろ誤りということすらもない世界になる。
  私が、真理に到達できないことは悲しむことではない。そういう「現実」を受け入れて世界に何があるのか、理解できないことを知りながら、その世界に生きている。それぞれの人がそれぞれの「真理」を持ち「現実」を持ち暮らしているこのことを知っていればよいのだろうと思う。互いにすれ違いながら、生きているのだ。誰も気持ちを本当の意味では共有できないのだが、そこに自分の勘違いであろうとも同じ気持ちがあると思えればそこには、価値のある勘違いがあるのだろうと思う。こういうと、集合でいう共通する部分集合の要素のイメージがあるかもしれないがそこには、何もない。二人の、言い換えると、二つの世界は異なる。重なる部分集合となる世界というものは人と人の間には存在しない。それぞれに1人が一つの世界に住まい、それぞれに暮らしている。そこに勘違いが生じているのだが、それで良いと思う。