背広と自分と

  昨日のことだが、電車に乗ると背広を着た二人が前に座っていた。同じ会社の先輩と後輩という感じなのだが、そこで、周りを見渡すとやはり背広の男性が何人か座っていた。
  あたり前の風景なのだが、自分が背広を着ていないことに安堵していた。あんな服を着なくて済むんだから、今の職場も捨てたもんでもないなと。
  私自身は、仕事では背広を着ることがほとんどない。数年に1度くらいだろうか。大学出たての頃は喜んで背広を買って、ネクタイを締めていたのだが、あるときからネクタイすることに意味がないと思い、それっきりネクタイは止めてしまった。必然、背広を着ることもなくなった。
  背広がダメだというのではないのだが、自分の中で価値がなくなったということになる。ネクタイをつけて仕事をするのがかっこいいという感がなくなったのだ。こんな苦しいものをつけて何を喜んでいるのだろうかと、むしろ社会が人につける犬の首輪みたいなもんだと、忠誠や従属の証明、象徴なんだろうと思うようになった。
  ネクタイをつけているか、いないかでそんなことが決まるわけではないのだが、会社への忠誠や従属ということに気がついているか、いないか。喜んでネクタイを付けている自分はよくは気がついていなかったのだろうと思う。
  社会に従属することなく、人間が生活を営むことなどできはしない。ただ、気付きなんだろうと思う。社会への従属ということと、自分の関係を見る、反省する、この気付きがないと自分というものが維持できないのではないかと思う。