誰であるか

以下ハンナ・アーレントの「人間の条件」の一節を読んで

  自分が何をなしたかでなく、誰であるかが重要である。人は、これをしたという観点で自分を評価したがる。
  私は、こんなことをしたんだ、してきたんだ、これが自負だと思うが、自負と自分は違う。
  自分が誰であるのかということ、自分とは何であるのかということは、異なる問い、異なる意味がある。何であるのかという問いは、自分は何か「もの」である、自分はこれであると示す対象が存在するのだが、その対象は自分自身ではない、これまでにしてきたことや肩書きであったりする。何であるかというのは、自分自身が何者であるかを問わず、自分自身を投影する事物が何であるのかという問いである。
  自分が何であるかという、この問いを自分に投げると時、自身は成功に対する手段でしかなくなる。自身の成功が最終目的であり、その目的のために自分が存在するという、ひっくり返った関係が成立している。
自分の成功が目的であったのに、その成功のために自分が存在しなければならない。
  ではその成功とは何なのか。自分の成功ということが、逆転の原因だと思うのだが、自分の成功などというものはない。どのような状況においても、自分は自分でしかないのだが、その自分の成功ということ、自分が誰であるのかということを、考えるのでなく何であるのかを考える時に、自分の成功ということの本来の意味から取り外しているのだと思う。本来の自分の成功とは、ハイデガーが言うような本来的な自分、日常生活に目を奪われていない自分をそれを取り戻すこと、自分が何者であるのかを考える、知る(私は知ることはできないが)ことが成功なのだと思う。
  自分が何であるかを考える限り、その人は自分の投影物を何かに求め続けることとなる。そして、投影物を求め続ける自分の投影物が自分をその囚人とすることになるだろう。自己の投影というシステムを破る時、そのシステムに囚われている自分を静かに眺め、その構図から自分を見ることこそ自分というものの成功なのかと思う。
  このシステムから離れることは延々と出来ないであろうと思う。ただ、自分がその囚われにあること、その対象、投影物に意味があるか、これを問うことこそ、本当に、本来的に生きるという意味だと思う。