普遍についてのメモ

最近、普遍について研究中である。
結局、この普遍と言うものがあるのか、ないのかよく分からずじまいだ。
普遍の実在を認めなければ性質というものは、実在しないことになる。白とか色のようなものも実在はしないと。
目の前にある世界が実在の世界と単純に考えると、以外とそうでもない。人間の目を通して見える世界とは、実在の世界より抽象化された世界だ。人間の目には可視光線しか見えないが、昆虫には紫外線が見える。そして、人間の物体の把握は、言葉による理解によるところが多い。私には、アラビア語を見ても形状さえも把握できないのだが、この言葉に通じている人にとっては、形状が明確なのだろう。
白が実在しないとすると、目の前にある白いコップは、実は白くないということになるのだろうか。
白くないということは、経験から見てないことなのだが、この白は実在ではなく、白の概念を私が抽象して持ちえているだけなのか。
そうすると、白は、私の感覚印象のだけにあるということになる。
ものの側にある、白となる、人の目に白に見える性質はないのか。これが白ではないのかという気になるのだが、これを認めると、実在論者になるようで、個物における性質’白’は、認めるが、あるコップの’白’と、ある皿の’’白’’は似ているが実は、同じ白という性質ではない。類似している性質であっても、異なる性質である。そういう点で普遍は存在しない。というと実在論者ではないのか。
どうもあやふやであるが。
どちらも白と読んでいるが、白は類似性と考えることができるのだが、では何に類似しているのか。これが、基準の白というものは存在しないのだからやっかいだ。もし基準の白を見つけることができれば、イデアになるだろう。これこそが実在論者のもっとも強力な形であろう。
そうすると、類比的に集まった白のパターンが白という性質かと考えると、これも問題がある。白に類比する集合という考えは、白という概念が先に立たないと要素を集めることができないのではないか。
白の要素と、別に私なら黒という要素が入り混んだ時、これが白の集合と皆が合意すると、これが白になってしまうからだ。
私ひとりが、黒の要素が入っていると言っても誰も相手にしてくれない状況が生まれる。このときには、白の意味が変わったと私は感じるのだが。
あー難しい。いったい世の中にあるのは、何、どこまでがあるのだろうか。