生活と時間

 最近出かけていないので、自転車で軽く出かけた。歩いて出かけるときもそうだが、空を見ることが多い。空の下に町があり、山があり、山の向こうには見えない何かがある。不思議に思う。
 他の人も、空を見上げたりしているだろうが、こちらは見えない。川沿いのグランドで野球を少年や、大人がしている。それぞれに家庭があるのだろう。どんな背景をその人たちが持っているのか分からないが、私と同様に色々な体験をしている人々が集まり楽しんでいるのを見ると、自分の知らない世界が至るところにあふれている。
 子供の頃の生活は、全てが新鮮であったように思う。日々が嫌なことも面白いことも次々と起きていた。
 今は、この変化が自分が嫌いになったのだと思う。生活に変化は少なく、変わりがないことを楽しむようになったのかもしれない。散歩での風景が楽しみだ。いつも同じ風景だが、今日は日が暖かく、風が気持ちがよい。
 今の生に満足しているわけでもないが、ここから出て行くつもりもない。もっと充実した生に出会いたいとも思うが、その勇気もない。
 どうにも、私は不足を感じる性質だ。人は自分の器が空っぽであるがために、その中身をどうしても詰め込みたくなる。自分が詰め込んだものを覗き込んでは何が入っているかを見て満足する。詰め込まれたものは全て過去であるのに。
 何が入っていようが、今の私には、詰め込んだものは残っていない。底の抜けた器だ。次から次へと何かを詰め込んでいないと、何かが入っている気がしない。
 時間は、等しくだれもを過ぎ去っていく。無為の時間も、有為の時間も時間には変わりがない。自分一人が自分の時間に満足をつけ、不満をつけている。
 何もしていない一日は、何か無駄に過ごしたような気がするが、何かをした一日も淡々と過ぎ去っていく。有為な一日を過ごしたと思っても、記憶の片隅に残るだけだ。
 その時、その時が面白ければ、充実した日になるのだが、それも夕食の時には忘れている。充実した時間も、そうでない時間も過去となれば、今に何の関わりもない。
 過去を大切にし生きていくことは、記憶を言葉に呼び起こし、何度も反芻することだ。そのような楽しみも良いかもしれないが、今の感覚に優るものはない。
 
 生とは難しい。本当に楽しい思いを毎日出来れば最高だが、そんな生もあろうはずもない。今の生活に見つける小さな楽しみ、今はこれを楽しもう。
 何か、大きな出来事があるとしたら、いつか必然に出会うだろう。