豊かさの欺瞞

  家から車で10分くらいのところに大資本の巨大商業モールができた。
  そこの商品は、大資本らしく珍しいものがなく、ありきたりのものが並んでいるだけだ。そこには沢山の人が、吸い込まれていく。
  普段、そこへは行かないのだが、ある日、用事があって寄ってみた。子や妻に何か美味しいもので買って帰ってやろうと思ったのだが何も良いものがない。(百貨店と違うので非日常的な高級品はない、高いか安いか分かりにくい中途半端な焼き菓子なんかはあった。)
 
  昨日の晩10時過ぎにその前を通ることがあったので、店を見ると煌々と電気が付いている。(晩10時を過ぎれば、労働基準法の深夜労働にあたる時間であり、一昔前は女性は保護の対象であり労働が禁止されていた。)
  私が住む世界は、これが豊かさであり、誰かが深夜労働をし、誰かが深夜に買い物を楽しむ。そして、これが便利さとして皆が受け入れている。
 
  深夜に働く者には家族があり、その生活は豊かなのだろうか。彼と彼女は、25%増しの深夜賃金を貰い、それで満足しているのか。家族がそれを享受することに満足しているのだろうか。
  深夜に買い物をする者は、昼間に買い物ができないのだろうか。昼間に買い物ができない家庭は、昼間はどんな生活をしているのだろう。
  経済的に許されれば、誰も好き好んで、深夜に働く者はいないだろうし、深夜に買い物はしたくない筈だが、このことを誰もが忘れつつある。深夜に働き、深夜に買い物を拒否することは環境がこれを許さない。深夜労働と長時間労働を受け入れなければ雇用されず、深夜で買い物をしなければならない。このような生活状況は、決して豊かであり、便利さ、だとは思えない。
  どこかで、踏み外した過程があると思う。
  世間の労働組合は、衰退の一途であり、巨大資本に対抗する者はいない。
  そして、自営を除いて、日本人の多くが労働者階級であるにも関わらず、テレビではセレブがもてはやされ、書店では、もしドラが流行る。多くの人が、経営者の目を持つ前に、自分が労働者であることを忘れている。セレブの富そのもに関心が奪われ、富の源泉がどこにあるのかを忘れている。
 
  何故、このような虚偽が受け入れられているのだろう。
「豊かさは、深夜に買い物ができること。」
「豊かさは、年中無休で、正月でも、好きな日、好きな時に、買い物できること。」
「巨大商業施設で、煌々と照明が輝く中、買い物ができること。」
 
  多くの人が、ひとときの享楽の前に、商業施設が提供する価値観の基に、疑問を持たずに暮らしているように見える。自分が犠牲者であることを忘れている。
 
  朝から夕方まで働き、家族と食事をする。日々の暮らしの買い物は昼間や夕方に済ます。これだけで豊かになると思うのだが、このような価値観はどこにも喧伝されない。当たり前だが、これを皆がやると、深夜に働く犠牲者の存在がなくなってしまう。経営サイドでは、出来れば、深夜に働くこと、買い物ができることが富だと思わせておくことが都合が良い。こんなことを喧伝すれば、労働者が自覚、虚偽の豊かさから目が覚めてしまうだろう。
(一世帯に労働者一人でも生活できる。今はこれができない。賃金は低く押さえられ、特に商品経済を享受し、特に住宅を所有しようとすれば2名で働かざるを得ない、この住宅は、一世代毎に建て替えがなされ、そのような安価?な商品が供給されている。住宅はローンで購入し、預金金利は極端に低いのに、貸し出し金利で労働の果実を搾取される。二人で働き続けなければ、二人で全力疾走しなければ家は失い、暮らすこともできない。)
 
  私は、この巨大な商業モールが一つのシステムとして機能する社会システム、このシステムが豊かさをもたらすとは思っていない。そして、このシステムそのものに対抗することも出来ない、このシステムの欺瞞性、犠牲の構造を見ることは難しい。人は自分が見たくないものを見ない。
 
  私が出来ることは、システムを眺め、その流れに巻き込まれないことだ。もう既に巻き込まれているように思うが、少なくともそのことに気が付いていたい。