愛それは、はかなく

  愛の反対は、無関心。
  この言葉での愛の意味は、関心である。関心が愛であるのか考えよう。
  知的な愛であるが、関心のないところに愛はない。
  私は、世の中の多くの出来事に関心が呼び起こされ、そしてその出来事から関心を失う。世の中に,、関心を持つべきことは多くあるが、そのほとんど全ての出来事に対して私は、参加をしない。
  テレビのニュースでは、私は一時の関心を持っても、次のニュースを聞けばすぐに関心を既に失っていく。鳥の脳みそのようだ。
  多くの惨事と慶事が世の中にはあるが、私は出来事の全てに参加することはできない。私は、傍からそれを眺めるだけである。眺めるだけでも関心があるのであり、世界に生じている多くの出来事は気が付きもせずに過ぎ去っている。
  出来事は、人が関心を持つからこそ、出来事となる。逆説的ではあるが、事件は現場で起きているんじゃない。関心があるからこそ起きているんだ。
   今、この瞬間にも、世界のどこかで、人が死んでいることだろう。今、この瞬間に、どこかの森で新しい木が芽生えていることだろう。私の態度に関係なく、物理的な現象は次々に生じていくが、それは私が参加することによって初めて出来事として結実する。その参加の第1条件が見ること、聞くことである。
  出来事の成立は関心である。見ること、聞くことのどちらにしても、関心のないことは私は見ない。聞かない。
  見ることは、目さえ開いていれば自然と見えると思いがちだが、実際に私の視野にあるのは、関心のある事物だけである。視野の中に入っていても多くの事物は実は見えていない。人の意識は正面の事物に注意を払っているだけであり、正面の事物も背景となれば見ることもできていない。探し物でも、自分の目の前にそれがあるのに、人に言われて初めて気付く。聞くことも同様に、騒音もなれてしまえば除外される。
  私に対して関心がない者から私を見れば、その者にとって私は世界の背景の一部に過ぎない。私は可能性として存在するに過ぎない。見えない事物である。
  関心とは、出来事の成立であり、一つの世界の成立(森の中で新しい木が芽吹くこと)、私の世界の成立である。私の関心で世界が次々と結実し、そして私の関心の喪失により世界は霧消する。そして、私が関心がないことは、私が知らないままに過ぎ去り消失する。
  関心は世界の成立の契機であり、世界は関心により創造され、人により語られる。
  一つの世界の成立を愛と見るならば、関心は愛である。世界の成立に人の語りは必要がないとする立場であれば、愛にも関心は必要ないだろう。この時の愛は、人が語る愛ではなく、愛の概念を超えた愛であることだろう。すれば、愛は人の言葉であるにもかかわらず、その言葉を超えた存在となり、表現不可能なものを言葉で表現したこととなり、愛は言葉の意味を失う。
  愛は、はかなく、又は永遠か。