地底人

  毎年、交通事故で死ぬ者がいる。これは車がなければ、死なない人が毎年確実に存在するということだ。このことを誰もが、知りながら車を利用することを止めない。
 私は、車に乗る。車に乗るという行為は、最悪、人を殺す結果があることを知っている。私は、確率的に言えば車に乗る以上、全体では確実に死者が生じることを知っている。
 人は、利便のために他者の犠牲(ひるがえれば、自身がそうなる危険性も含めて、むしろ忘却、逃避しつつ)を容認している。現在の便利な生活を行うためには、必ずそうならざるをえない。安いTシャツや、高価なチョコレートは、他者の犠牲の上に成立していることを知りつつ、消費を続ける。極端に安いTシャツを購入することに喜びを感じ、極端に高いチョコレートに喜びを感じる。
 ウェルズのタイムマシンという小説では、地上に住む文化的な人種を地底人が食べる。地上の文化的な生活は、地底人の労働によって支えられている。
 この地上に住む文化人が、文化的な生活を続けるには、一定数が必ず地底人に食べられなければならない。そうでなければ、地底人が地上の文化人を飼う必要がないからだ。この犠牲者の存在によって地上の文化的な社会は成立している。
 確率的に、犠牲者の存在は確実であるが、だれが犠牲者となるか特定されていない。このことが、犠牲者を許容する最大の理由だろう。誰もが、自身の行為によって、特定の誰が死亡することが分かっていれば、その行為はできないだろう。もしくは社会的に容認されない。
 この誰が犠牲者か目の前に立ち現れないこと。不明なままにあることが、円滑な社会に必要なのだろう。あえて調べれば、多くのことが判明するはずだが、日々の生活の前には、その犠牲者のことを考える余裕がない。または考えたくない。このことを考えるよう社会に言い続ける者は、煙たがられ社会に疎外される。このことは、身近な労働を考えれば分かる。
 このことは、学生の頃に初めてウェルズの小説を読んだ時から感じていた。今の社会状況は特にそう思わざるを得ない。地底人とは、消費を目的とした文化そのもの、またその文化が個人を強要、圧迫する力、一定数の犠牲を前提とした社会構造であるとすればどうであろう。とすれば私は、地上人の一部であり、地底人の一部である。