言葉と世界

  今日、近所の日帰り温泉施設に行った。風呂から上がって休憩場所に行くと、先客が1人でテレビに向かって相づちをうったり感想を言っていた。変わった人だと思ったのだが、次々と考えることが口から出てしまうのだろうか。
  人は、予め考えを持っているように思えるが、言葉にしてこそ考えがはっきりする。言葉にする前にもそういう考えを持っているから、言葉になるのだろうと思うが、言葉にしない限り、考えはまとまらない。
  言葉にする前に、何か考えが頭の中にあるように思うのだが、言葉になる前の考えは、心の中で探してみても見つからない。むしろ、言葉にしないで探すことさえできない。
  言葉にする前の考えは、どこにあるのだろうか。頭の中と言われるのだろうが、物理的な場所のことではない。言葉が飛び出てくるこのプロセスは不思議なものだ。
  この頭の中から、飛び出してくるというか紡ぎだすというか、そういう言葉が出ることによって、自分で世界を規定して、一度言葉にしたことを、また頭の中に戻しているのだと思う。それが、その人が持っている世界を作り出す。  
  実在の世界には、様々な世間のしがらみ、習慣、価値観みたいなものは存在しないのだと思う。人は自分が言葉にしたことを、自分で呑み込んでまたそれを世界の実在、あり方だと思い込んでいるように思う。
  会社でも、どこでも人と人との間に偉さの違いなどはありはしない。金持ちでも、裸にひんむいてしまえば、風呂で裸にいる間は何者でもない。大きく言えば、人は種としては体毛の少ない尻尾を無くしたサルでしかない。服を着ることを覚えたサルから、その人が着ている服について自分で言葉にしたことを呑み込んでいる内に、社会の制度みたいなものを実在、リアルにあるものだと思う。ある意味で存在していることは認めるが、それもある意味でしかない。どんな偉いと言われた人も、亡くなれば灰や土になる。何も残りはしない。
  仏陀は、世界は空しいということを言っているが、自分で言ったことを呑み込んで、それを本当に思っていること、ところがそれは実在ではないと。世界が空しいというのは、そういうことを言っているのだと私は思っている。 
  実在と思っている物理的な世界さえも、私を構成する分子と、それ以外の分子にどう違いがあるのかと考えていくと、どこにその区切りがあるのだろうと思う。
  この区切りも、私が言葉にして呑み込んでいるものに過ぎないのかもしれない。分子レベルで見た時に、私と言うものがあるのだろうか。私を構成する分子の塊の雲のようなものが私なのだろうか。
  そう考えると、実在の世界も、私の考えにより構成を規定して、私という分子の雲の範囲を私の言葉によって区切っているのではないかと思う。